2014/04/10

5人兄姉の末っ子としてこの世に生を受けました父42才、母は40才の遅い子です。
すでに4人の子をもうけていたのに、よくぞ産んでくれました。ありがたいですね。
僕の生まれた昭和23年といえば、第二次大戦が終わって3年。日本はまだアメリカの占領下にありました。
いわゆる団塊の世代です。
僕が物心ついたのは、まだ戦後間もなくの頃ですから、家族が住んでいた大阪難波と言えども下水道は未整備で「おわい屋さん」と呼ばれる人が各家を回っていました。大通りから一歩入ると未舗装の道ばかり、埃がたつので夏など水撒きは欠かせません。家には井戸があり、汲んだ水を通りに撒いていました。
「へっついさん」我が家ではかまどのことをそう呼んでいました。今思い返しても巨大な鉄釜で、7人家族(大工見習いの居候がいた時もありました)のご飯を火吹き竹を使い薪で炊いていた母、朝はいったい何時に起きていたのでしょう。
そして当時の洗濯はといえば、大きな盥に洗濯板、石鹸は手に余るほどの大きな四角の固形石鹸でした。ゴシゴシと洗濯板にこすりつけて洗うのですが、寒い季節はさぞ冷たく大変だったろうと思います。
背を丸めて、一心に洗濯板を使っていた母の後ろ姿が目に浮かびます。

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